辰年を迎えた。読者諸氏におかれては、いかなる年末年始を過ごされたろう。僕にしてみれば、年末年始というのは年齢を重ねる時期にあたり、ついにこのほど四捨五入して40の大台に到達してしまった。振り返れば2023年は人生初の胃カメラに大腸カメラ、その後に生じた謎の断続的断末魔的しゃっくり禍と、加齢に伴ういろいろのイベントが発生したのであった。
とはいえ、それらおよそ歓待できぬ出来事以上に我が精神に深く刻まれているのは、僕が生を受けた1月2日が新聞の休刊日であり、小学校の入学記念に手渡された「お誕生日新聞」が昭和64年1月1日付のものだったことだ。お誕生日ではないではないか。ものはついでと蒸し返しておくと、保育所の卒園記念のしおりに「平成元年1月2日生まれ」と書かれたことも、未だに根に持っている。そんな日付など存在しないではないか――6歳児にも6歳児なりの「昭和滑り込み組」としての矜持があったのだろう。
最近でこそ改善が見られるけれど、かつてインターネットの何々サービスにいそいそせっせと登録する場面で、生年月日を選択するプルダウン上に「1989年(平成元年)」としか表示されず、やはり大いに憤激することもあった。選択のしようがないではないか。果たして自分は想像上の生き物だったのか。いや、それでいうなら同学年の大勢を占める辰年の連中の方が、よほど浮世離れしているではないか。せめてもの救いは、1月2日生まれはプルダウン操作時のスクロール作業量が実にエコノミーなことくらいだった。
さておき「たつ」年である。「たつ」ということはすばらしい。弁が立つ、蔵が建つ、メドが立つ、ナニが――ともあれ、たつという営みは実にすばらしいのである。たたないよりはたつ方がいいに決まっている。
そんな次第で例のごとく強引に、大阪各所で出くわした「たっている」光景を展覧してみることにしたい。そうでした、明けましておめでとうございます。
土佐堀通上に建つ城におののく
かつては蔵屋敷が建ち並んだという土佐堀あたりを歩いていると、あろうことか右手に城が建立されているという場面に出くわした。より正確には、さる家電量販店の創業者が私財を投げ打った復興天守に設置される御影石が、まさにこれから尼崎へと向かおうという状況に居合わせてしまったのである。きちんと磨き上げられたええ石がゆえに、周囲に林立するビル群の写り込みが惜しいが、少なくとも移動する「尼崎城天守」を押さえられた事実、こればかりは誰かに褒めてほしい。
尼崎はちょくちょく訪ねる機会がある土地で、尼崎城もその敷地内までは立ち入ったことがある。阪神電車の車窓から遠望するそれとは異なり、しげしげと観察してみれば窓枠には現代的なサッシが用いられているのがよく分かる。ああ、あれは多少乱暴に扱おうとも「スッ……」と三点リーダの一つや二つ残して窓が閉まるタイプのやつだな。ええな、うちのと違って機密性も高くて盛夏も厳冬もへっちゃらなんやろな。YKK APかな、それとも三協立山かな――などと考えつつ、その場を立ち去ったと記憶している。
入城料惜しさの行動が悔やまれる。団体行動だったがゆえ、それも致し方ないわけですけれど。それはそうと「大阪彷徨報告書」などと銘打っておきながら、新年早々尼崎の話題から始めてしまった。そこのところは広義の大阪、06ナンバー、摂津国ということで目くじらを「立てず」にお見逃しいただきたい。それはそうと、尼崎の町工場の社長へのインタビューはわりと得意分野である。
たつもの、たたざるもののただならぬ一幕
年の初めから縁起でもないが、立とうにも立てない局面というのは誰しもやってくるものだと思う。自らを奮い立たせようにも、気持ちに身体が追いつかない。おそらく僕自身もこれから歳を重ねるにつれ、そうした煩悶が頻繁に繰り返されることになるのだろう。そのぶん、図々しいおっさんになれるなら本望だが、それはそれで難しそうに思われる。いらぬところで人に気をつかい、時としてしっぺ返しを食らう。ゴミ袋に天寿をまっとうさせようとパンパンに内容物を詰め込み、破裂させる。道の駅で買い求めた野菜の入ったポリ袋に生産者の顔と氏名が印刷されたシールを認めるや、廃棄時の断腸の思いがイメージされてつらくなる――以上のような行動ないし思考の様式が早晩に変わろうとは、なかなか想像できない。
それにしても、長い長い人類史を振り返ってみてもこうも見事に「立てない」事例があったろうか。見ての通り被写体は開店祝いの花輪だが、素人目にもそれなりに上等なものであることは分かる。相応の祝意が込められていることも、もちろん理解できる。それなりの徳を積んだ人物が店を開いたのだろうというような憶測も成り立つ。だが、そんなおめでたい代物が湊町の歓楽街をやや外れたロケーションで、足場を固めるブロック塀の介添えもむなしく、これもやはり林立する高層建築がもたらしたであろうビル風の前に屈しているのだ。
よくよく写真の奥に目を凝らしてみてほしい。何やら卑猥な雰囲気をたたえた樹脂製品が、びくともせずに屹立しているのである。なんと皮肉な情景であろうか。大阪から尼崎に話がすり替わった流れそのままに、「たつ」とは逆の方向で話がまとまってしまった。「立つ瀬がない」とはこういうことを指すのだろうか。
倒立するワンカップ、そして倒立できない私
小中高と、体育の授業は心の奥底から湧き出る憎悪の対象だった。他人の運動神経に量的評価を下すことに関して、人の道から外れた行為に思えてならなかったからだ。短距離走では「走り方がおかしい」とあざけられ、水泳では海水浴場から徒歩10分の距離に住まいながら5メートルも泳げず、球技大会ではサッカー部員に蛇蝎のごとくののしられる――巳年生まれをいいことにコジツケ的被害妄想を露呈した感はぬぐえないが、ともあれそういった失敗体験の蓄積が、僕を体育嫌いに仕立て上げたのは疑いようもない事実なのである。
無論、倒立などできようはずもなかった。壁倒立などという折衷案らしきを試みても、体が床面を蹴り上げるその行為自体を拒否するばかりだった。それがどうだ、このワンカップである。ベロ酔いの象徴とでもいうべき物体が、倒立のできない僕に向かって「えへらえへら、どやどや」と迫ってくるのである。頭に血を上らせているわけだから、挑発的好戦的な態度もやむなしといったところか。本来であれば個人技であるはずの倒立が、複数本による団体競技のように展開されているあたりも、チームスポーツのおどろおどろしさを体感した身にはつらいものがある。
これはいけない。あの二度と味わいたくはない悲哀と絶望に満ちた日々が、卒業アルバムにくっきりと残されたプールサイドにへたり込む小学6年生の暗澹たる様子が、年明け間もない脳裏を支配してしまうではないか。コペルニクス的転回を図ろう。ゴミをそのへんに投棄するにあたっても、作法のようなものがあるのだと(この連載はポイ捨てを推奨するものではありません)。もはやネットミームと化した伏せ丼の亜種なのだろうと。
自分でも収拾がつけられなくなってきたので、最後にこれだけは言っておく。このほど既婚者になったので、いよいよもってしっかり身を「立てる」必要が生じました。低音ボイスを欲している皆々さまにおかれましては、何卒よろしくお願いします。