オーサカン・チルアウト・サマー

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関根デッカオ

ツッコミ

かつて読んだ吉井和哉のエッセイに「死ぬほど嫌いな夏がようやく終わりました」というような一節があった。むしろそれ以外の内容を一切覚えていないのだが、当時高校生だった僕は死ぬほど共感したものだ。暑さのために心身両面で精度が落ちる。あらゆる言動が手ぐせ頼りになる。表を歩いてみても、航続可能距離が半減しているのが分かる。いまも変わらず夏は忌み嫌うべき対象、仇敵なのである。

8月も終わったが、体感的な意味での夏はまだまだ終わりそうにない。もはや亜熱帯に片足を突っ込んだに等しい本邦のクソ暑さを向こうに、空調の適切利用や水分摂取が呼びかけられているが、それら基本的な対策とは別方面からの働きかけも考えうる。偏見を承知で夏との親和性が高いと思われるのが、チルアウトと呼ばれる営みだ。酷暑を耐え忍んだうえで水平線に沈む夕日やら、スローな電子音楽やら、サウナからの水風呂やらに一抹の清涼感ないしカタルシスを求める。そうして、往々にして過ぎゆく夏の日にぼんやりとした詩情を伴った肯定的評価を下すわけである。

個人的な体験のみに照らせば、これらの試みはまやかしだと判断せざるをえない。なぜなら、連日の猛暑日に当てられた我が身にチルできる余裕が残されているはずはなく、暑さという現実から目をそらす手段にはなりえないからだ。チルアウト的な行動を取ったところで、汗は頰を伝い、虫酸だけが走り、声のトーンは可聴域ギリギリまで落ちる。死ぬほど嫌いな夏をやり過ごすうえで、チルアウトはあまりに無力なのである。

とはいえ、なんらかの利用価値を見出せはしまいか。そう考えてこのほど、強引にでもチルアウトの名のもとに語れそうな写真を集めてみた。これらとて、暑さしのぎになんらの効力をなすものではないが、夏チル無力論者のせめてもの悪あがきとさせてほしい。ところで本連載の冒頭にはいままで、ですます調で時候のあいさつめいたものを記していたわけだけれど、思うまま書き進めていると常体になっていた。これも暑さゆえの省エネ対策とご了解願いたい。怨嗟に満ちるあまり、長くなってしまいましたけど。

君は公衆浴場でチルできるか

(大阪市西区)

九条の住宅街で見かけたガスメーターである。熱エネルギーの数値化という厳然たる責務を負いながら、頭にはタオルを乗せて「いい湯だな」とでも言いたげだ。古色蒼然たるチルアウトの末に、ゆるゆるの過剰請求が来るのではあるまいか。そういえば、公衆浴場でこの手のスタイルで過ごす人とは、ついぞ居合わせたことがない気がする。そもそも、公衆浴場や銭湯とは縁遠い人生を歩んできたことに思いが至る。

昨今の銭湯再興ムーブメントを受け、かつての生活インフラが文化サロン然とした色彩を帯びてきた感がある。外野の印象ではあるものの、こじゃれた手ぬぐいや瓶入りの牛乳を小道具に据え、チル感が増強されている感じも受ける。表面的にでも一連の流れに乗っかる方が「界隈の人」を装ううえで得策だろう。しかし僕の場合、入浴は最低限の身だしなみの域を出ず、まれに友人から銭湯に誘われても「今日は他人の裸体を見る気分になれない」などと適当に理由をつけて回避する。誠実無比な人柄は、安直な自己演出のための欺瞞など許すはずもないのである。

旅先が名の知れた温泉地だったとしても、事情は変わらない。湯船につかるのはせいぜい5分程度、僕の温泉体験は正味15分もあれば事足るのだが、これにも理由らしきがある。大学に上がる直前だったか、家族旅行で温泉旅館に泊まったときのことだ。生来の貧乏性である僕は、ここぞとばかりに約1時間を入浴に費やした。てきめんにのぼせ上がり、脱衣所脇のトイレで失神。全裸かつ無施錠というおまけつきだった。仮に人様に見つかれば、安否にかかわらず醜態をさらしていただろう。まずもってこのリスクを念頭に置く必要がある。

精神的にこたえた経験も暗い影を落としている。実家住まいだったころ、風呂の改修のために銭湯を利用すると、高齢の先客がドライヤーを下着にむんずと突っ込み、自らの大事な部分をブローしていたのである。説明責任を求める周囲の視線にバツが悪くなったか、「こうしやんと、極寒の紀ノ川大橋渡れやんからな!」との弁解がなされたが、論点のすり替えもはなはだしい。読者諸兄、特に被害拡大が見込まれるロン毛の諸兄には、この場を借りていちおうの注意喚起をしておきたい。

象とうさぎの行水に大いに学ぶ

(大阪市北区)

風呂に特段のこだわりのない僕からすれば、6月半ばから9月下旬にかけては行水のハイシーズンだ。夏場のガス代がほぼ基本料金のみだったこともあるほどで、強いて言うならばこの経済性にこそ、死ぬほど嫌いな季節のメリットが認められるのかもしれない――とは書いてみたものの、電気代でしっかり相殺(あるいはそれ以上)されているのだった。ほんの少しでもすきを見せてしまったことが大いに悔やまれる。

さて、こちらは出入橋から北新地方面に抜ける道中で出会った、象とうさぎの仲よし行水フレンズである。僕にとっての行水は文字通り焼け石に水でしかないが、ご両人の表情は実に晴れやか。まさにチルアウトの真っ最中といった爽やかさをたたえている。ただ象は分かるにしても、なぜそのお仲間がうさぎなのだろう。ざっと調べてみたところ、うさぎの水浴びは原則として推奨されないのだという。弱点を克服してまでチルな時間をともにするあたり、単なるお友達以上の関係性を疑わずにはいられない。ほんの少しでもシンパシーを寄せてしまったことが大いに悔やまれる。

そんなことを考えるうち、上下に書き殴られたタギングにも合点がいく気がしてきた。うさぎへの同情か、両者への嫉妬心か、あるいは種の隔たりを超えた愛を祝福しているのか。こちらの憶測など意にも介さず、そして迫りくる撤去の日を思わせる退色さえものともせず、ご両人は能天気な笑みを浮かべるばかり。この鷹揚とした精神性にこそ、耐えがたい夏を乗り切るヒントが隠されているのかもしれない。

レジェンド喫茶、真夏の救済

(大阪市北区)

大阪駅前第1ビルの[マヅラ]といえば、泣く子も黙る大阪喫茶シーンの重鎮だ。巨大地下宇宙空間の生みの親で、100歳を超えてもなお店に立ち続けた創業者・劉盛森さんに生前、インタビューできたのはちょっとした自慢である。いつの日も店頭で「いらっしゃいませ!」と声を張り上げていたその姿を思い返すと、夏場の僕はあれほどまでに声帯を使っているだろうかと自責の念に駆られてしまう。

何年前のお盆だったろう、そんなレジェンド店の前を通りすがったときに、ちょっとした違和感を覚えた。お盆休みの告知文に記された日付が7月だったのだ。きっちりシャッターが下りているあたり、旧暦を用いているわけでもない。純粋にペンを持つ手に前月の名残が残っていた、ただそれだけのことであろう。実際のお盆休みは果たしていつからいつまでなのか、気にならないではないけれど。

とはいえ、なんとも前のめりでよろしい。梅田の一等地、メニュー表に躍るフレーズを借りるなら「駅前の高家賃の場所」に店を構えながら、来るべきチルアウト期間をこらえきれないかのような、すでにチルが始まっているかのようなゆるさは実に微笑ましい。これぞ正しいチルアウトへの向き合い方のような気がする。誰かのように揚げ足取りのような写真を撮る人も、そう多くはなかったのではないか。

冒頭で「暑さしのぎになんらの効力をなすものではない」と書いたが、この写真を最後に持ってきたことでいくらか心が洗われた。さすがはレジェンド店である。来年の夏は余計な理屈をこねず、もう少しチルアウトと仲よくできる夏にしたい。顔面にたぎる脂汗すら、チルの材料であると前向きな解釈を与えてみたい。そう記したところで、2023年の夏はこれから延長戦入りだと悟り、一気に現実に引き戻されるのであった。

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