ツッコミ

この連載も、前回の寄稿からずいぶんと間が開いてしまった。放っておけば「連載」の名のもとに、文章を書くことが許されなくなるかもしれない。いやはや、危ないところだった。「本業」にかまけているばかりではいけない。いや待て、これも立派な本業だ。そういう次第で、久しぶりに筆を執っている。

もちろん、空白期間にも僕は街に繰り出していた。大阪環状線の大阪駅の両隣、すなわち天満と福島のキラキラ度はストップ高というような印象になった。新世界の街を挙げてのテーマパーク感もまた、相当に程度を強めた。なんというか、大阪の街全体が祝祭ムードに満ち満ちているような気がするが、国際的な祭典が開かれているのだから、それも無理からぬ話なのかもしれない。まっこと手前味噌な話なのだが、かの祭典において僕は取材に加えて、とあるパビリオンのナレーションを担当した。行く先々で「声の仕事がしたい」と、しつこくアピールを繰り返していたところ、なんだかとんでもないところに仕事を得てしまった。

単純にビビっているし、一方でこれから万博に行こうという人は、僕の声を何よりの目当てに夢洲に渡るべきだとも思っている。ともかくも、職業人としてのプロフィールに堂々「ナレーター」を書き加えられるようになったことは恐悦至極に尽きる。

かたやつい最近、初めて自費出版なるものにも手を出した。表題は『酒屋の立ち飲みで考えた – ガイドにならない大阪立ち飲みガイド』。読んで字のごとく酒屋の立ち飲みについての所感を述べたものだが、店名については一切の記載を避けた。立ち飲みには各々に固有のムードがある。それをいち個人の感想でもって色づけるのを嫌ったからだ。関心のある人は関根に一報入れてほしい。なんだかただの近況報告のようになってしまったわけだけれども、今回は梅雨入りも間近ということで、半ばコジツケ的に雨にまつわる風景をご紹介したい。本、買ってね。

意欲作“パオなタイフウ”も見納めか

(大阪市大正区)

まずもって「タイフウ」である。なぜ、カナ表記を採用したのか。もういっそのこと「タイフーン」にしてしまうべきではないか。制作者の意図を問いたい。尻無川、水門、高潮に関してはしっかり漢字が用いられており、絵画的な表現としても意欲が満ちあふれているだけに、なおのこと話が聞きたい。

そして、台風のイラストだ。こんなん、象やんか。パオやんか。ともあれ、うずの描写を用いることなく台風を表現したケースは、世の中広しといえどもそうそう見当たらないのではないか。希少価値である。「象」の鼻先から吹き出す暴風も見逃せない。気象予報士ではないから適当な言及は避けるべきなのかもしれないが、これほど局所的にアタックをかける台風というのも、なかなか発生しないのではないか。むしろテレビショッピングで紹介されるブロワーさながらではないか。ノリが「落ち葉にも! しつこいほこりにも! 車についた水滴にも!」のそれになっている。 ますます制作者を突き止めたい気分になってくる。

ところでこの尻無川水門、イラストにも忠実に描かれているようにアーチ型の造形をしている。全国にも類例のないこの水門が、耐用年数の問題でいまは更新作業の真っ最中だということは、多くの好事家が知るところだろう。そして工期が明けると、水門はゲートがシンプルに上下動する形の凡庸なものに変わるという。それに従うならば、この看板も更新の運命をたどるよりほかはない。ここまでネチネチと疑義を呈してきたわけだが、にわかにブルーな気分が押し寄せてきた。自らの成果物が消えてしまう、あるいはもうすでに消えているかもしれない――このことに関して何を思うのか。余計に制作者と膝を突き合わせて会話がしたくなってきた。

豪邸に引っ掛かるは生活の匂い

(大阪市住吉区)

そこにあるものは、本来の目的外であっても徹底的に利用し倒す。それはもはや人情である。僕だって、コンビニで手渡される手ふきを大量にストックしておいて、水場の掃除に使うことはよくある。そういえばここ最近、台所の流しがやたらな詰まりを起こしていて、ジメジメした季節を迎撃するうえで実に心もとない。と、ここで業務用強力パイプ洗浄剤・ピーピースルーの存在を思い起こした。返す返すナイスなネーミングである。Amazonを開いてみてみれば、折よくセールをやっているではないか。3つほどカートに放り込んで注文をかけた。

完全に話が逸れてしまったが、この医院と住宅とを兼ねた日本家屋である。瓦葺の塀には焼杉が用いられ、上部は漆喰塗り。ぜいたくな造りであることは素人目にも明らかだが、木製の格子窓から顔を出すのは――傘の持ち手だ。よくよく見てみれば、エアコンの配管が堂々と挿入されているのも分かる。重厚なはずのファサードに暮らしのありようが持ち込まれ、ある種の愛らしさにあふれた仕上がりになっている。

建物のぐるりを見渡してみても、そもそも医院を営んでいる点を鑑みても、傘立てを購入する余裕がないとは到底思えない。山崎実業のこじゃれた傘立てのひとつやふたつ買ったところで、家計に甚大な影響がおよぶとも思えない。それでも、ちょうどいい高さにちょうどよく傘を引っ掛けられる以上は、人に備わる合理性が働いてしまったのだろう。裏に回って見てみないと確証は持てないが、むしろ通常の傘立てを使うよりは、こちらの方が水切れがいいのではとさえ思われる。きっとこの家の住人は輪ゴムもきちんと取っておくタイプなんだろうな、レトルトカレーも残さずパウチからしぼり出すんだろうな……と、勝手な憶測ばかりが膨らんでくる。とにかく、いずれにしてもこの一景が実に大らかで、人間味にあふれていることに疑いを差し挟む余地はない。

“警報レベル”の傍点の深遠なメッセージ

(大阪市住之江区)

「用法・容量を守って正しく使いましょう」とはよく聞く謳い文句であるが、粉浜あたりを歩いていると明らかに用法・容量を無視した傍点の用法にぶち当たった。「正しく歩きましょう」「あいさつをしましょう」に付された傍点は、数えてみればなんと24個。両者ともフレーズの字数の倍以上の傍点が使われている。そして書き文字に対応するよりも、点と点の間隔を正確にすることの方が優先されている。こじつけを承知でこれを雨粒と見るならば「ポツポツ」などというレベルではない。もはや「ザーザー」レベルの傍点が、警報レベルの傍点が、そこに躍動しているのである。

しかし、言われてみれば交通マナーを守ることも、自ら進んで人にあいさつをすることも大切だ。傍点でもって強調するに値する行動であることに間違いはない。ここはむしろ「傍点は1文字につき1個」という常識にしばられていたこちらの不見識をこそ恥じるべきではないか。法に定められたわけでもない、業界人の経験に基づき形成された表記ルールなどより、優先されるべき事柄は星の数ほどある。人命や日々の明るいあいさつがそれらに含まれるのは、自明の理ではないか。

ルールや規制といったものは、時として不自由さや支障を生む――この掲示はそんな当たり前を暗に伝えるものと、僕は信じてやまない。絵柄を見るに子ども向けの内容と思わせておきながら、実は大の大人こそがわきまえるべきに警鐘を鳴らす、マルチで深遠な役割を果たしていると信じてやまない。こればかりはさすが、SFの大家・筒井康隆を生んだ街の面目躍如といったところか。ハイコンテクストな掲示に、心から敬意を評したい。

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