ツッコミ

時節的には「残暑お見舞い申し上げます」と始めるべきだが、体感的にはまるでそんな気分になれない。この状況を「残り物の暑さ」と形容するならば、もうエアコンのお世話になる必要もなかろうし、やむなくエアコンのお世話になった結果の「暑いのに寒い」という矛盾からも、すでに解放されていてしかるべきだからだ。紀伊水道からの風を受け、空調いらずの睡眠をむさぼる少年時代を過ごした身には、エアコン由来のそれはあまりに冷たい。

おかげさまで、ここ最近は下痢がとどまるところを知らない。おかげさまをもって、日の並びが幸いしたはずの盆休みも消化不良に終わった。何をうまいことをと、自分で自分にツッコミのひとつでも入れたくもなるものだが、そんなゆとりすらない。ともかくも「夏バテ」という言葉の適用期間に終わりが見えない。

夏バテは、もろもろの判断能力を低下させる。この文章を記しているいまとて、時間あたりに稼げる字数が満足に稼げない。夏バテは、ひいてはヒューマンエラーを誘発する。これは何も僕に限った話ではない。チェック済みのはずの原稿が戻ってこない、詰め替え用シャンプーをリンスのボトルに注ぎ込む、言うた言わん等々、まともな温度・湿度であれば考えられないミス、失態が、そこここに生じている感がある。

が、しかしだ。ここで安直にイライラ、カリカリ、ムカムカしてはならない。すべては夏のせいなのである。なんとなれば、夏に責任を丸投げできるのである。「暑いからボーッとしていました」「汗みどろでビールに逃げるしかありませんでした」。かような申し訳が立つくらいの寛容の精神が、あるいは大らかさが、いまこそ求められているのではないか。夏こそ、人は人にもっと優しくなるべきではないか――以上、所感を述べたうえで本題に入っていきたい。もうすでにバテバテだ。

桃谷に“ルズ”の留守を見出す

(大阪市天王寺区)

大型連休に入って間もないころ、連れ合いがベトナム料理を食べたいとのことで、わざわざ環状線の真反対に位置する寺田町まで出向いた。近場にも選択肢はたくさんあるはずなのに、こうした判断におよぶこともまた夏バテのなせる技なのかもしれない。ベトナム料理というと以前、上本町で一切空調の利いていない店を引き当ててしまい、半ば強制的に現地の風土らしきを味わわされたことも記憶に新しい。味覚で日本人に忖度しない外国料理店こそ数あれど、熱気の面で媚びない店があろうとは面食らったものだ。

ところでベトナム料理に限らず、いわゆるエスニックに分類される料理を出す店はポーションが大きい。この日オーダーしたアヒルの唐揚げはうまかったが、下戸の連れ合いは早々に嬉々として麺類を頼み、こちらは一度あたりに想定される摂取量を大幅に上回るアヒルを引き受ける事態になってしまった。胃からは「ガーガー」という鳴き声が聞こえてくるのに、ガー、すなわちベトナム語で言うところのノーマルな鶏肉にありつくことなどできず、ただただ膨満感ばかりが残った。これはこれでつらいと、全身にまとわりつくような湿度を振り切るように、桃谷へ向け環状線を1駅北進することにした。すると眼前に展開したのが、上図である。

見ての通り、McDonald’sの「ld’s」の部分が点灯していない。「ルズ」が留守の状況にもかかわらず、誰の目にもバテているにもかかわらず、所有権を示す部分が判然としないにもかかわらず、素知らぬ顔で来る人を迎え入れているのだ。点灯している箇所のみを拾い出してみても「マクドナ」と、なんとも心もとない。「ナ」まで消灯して初めて、大阪のマクドナルドであることを体現できるはずが、形容詞かいなという状態をさらしていたのである。

ほどなくしてオレンジ色の電車に飛び乗った。「バテ連」の輪が「ナ」にまで広がることへの祈念、「マクドな」文化と距離を置いて久しい事実、そして釈然としない感情ばかりが、ただでさえ余裕を欠く心のうちを支配した。

パーマネントシエスタ海老江

(大阪市福島区)

夏バテには昼寝が有効との話を聞いたことがある。とはいえ、生来の寝つきの悪さに悩まされる筆者にとって、昼寝という手段でもって心身の回復を図ることは難しい。「横になるだけでも違う」との言説も耳にするが、まやかしの域を出ないというのが個人的な感想だ。シエスタなどできない。いまはただ、座して艱難辛苦を耐え忍ぶしかないのである。

それがどうだろう。自宅近くで見かけたこの看板は完全にその身を横たえ、果たすべき職責を放棄しているのである。見る側が首を90度傾けてまで内容を把握せよというのか。だとすれば、僕もそれくらい大上段に構えた商売をしてみたいものである。かたや「クリーニング」の矢印が地面に向いているのも見逃せない。工場は地下で操業しているのだろうか。冗談はさておいて、クリーニング業にピリオドを打ち、セカンドライフを謳歌しているというのが実態なのだろう。積年のバテがそうさせているということなら、致し方もあるまい。褪せた文字一つひとつに対して、労をねぎらうのも悪くはなさそうだ。

いったんは疑義を投げかけたはずが、同情の念に駆られてしまった。しかし、やはり気になるところは気になってしまう。「午前中お預かりの品 夕方仕上ります」とあるが、涅槃の姿勢でそう説かれてもいまひとつ信頼が置けない。シワの取り残し、シミ抜きの不備など、そこはかとない心配が首をもたげてくる。たとえバテていようが、そのへんのねちっこさだけは健在な自らを呪うべきなのかもしれない。

スピード違反な筆致が生む“スピドー”

(大阪市西成区)

ライターという職業の代表的ヒューマンエラーといえば、やはり誤字脱字ということになろう。その点に関していえば、僕は夏バテであれ大ポカを演ずるようなことなくやっていると自負している(当社比)。ねちっこく重箱の隅をつつく性格も、時には吉と出ることがある。本連載がなんやかんやと打ち切られずに続いているのも、きっとそういう理由によるものなのだろう。そう都合よく理解しておきたい。

ともあれ「スピドー落せ」である。ロケーションは西成の外れに位置する商店街。あまりにも見事なヒューマンエラーが、商店の看板の裏で異様なまでの存在感を発揮していた。自転車の速度を落とせという意図は伝わるが、勢い余って筆が滑ったのだろうか。むしろこの注意書きをしたためた人の手先こそ、スピード違反を犯していたかのようにも取れる。伸ばし棒が先送りされ、「スピ」と「ドー」による合成語よろしい響きになったことで、どこかスピリチュアルめいた要素さえ感じさせるというのは深読みが過ぎようか。いずれにせよ「スピドー」を落とす方法というのを、僕は知らない。

暦のうえでは晩夏となった。それでも、実態としての「夏」が終わるのは現実的に見て10月初旬くらいだろう。さっさと夏の終わりが見たい。冒頭に述べた通りの寛容の精神を地で行くなら、「スピード感」でなしに「スピドー感」を伴う形でも一向に構わない。バテバテのこの期におよんで、細かいことを言うつもりはさらさらない。少しでも早く心穏やかにいられる日和に過ごしたい。それにつけても桜田ひよりはかわいい。そんなふうに感じる今日このごろである。

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