谷町九丁目駅の南側に位置する生玉前町エリア。谷町筋から大阪国際交流センターがある通りを曲がると、色褪せたオレンジ色の装飾テントが見えてくる。
高度経済成長期の建築を愛するビルマニア軍団「BMC(ビルマニアカフェ)」による書籍『喫茶とインテリア WEST』の表紙を飾り、2020年8月に放送されたテレビ大阪のドラマ『名建築で昼食を 大阪編』のロケ地にもなった[喫茶みさ]。
ドアを開けると、六角形パターンがデザインされたモスグリーン色の壁と、オレンジ色のレザーチェアが目に刺さる、アールのついた天井と窓や、もはや動くのかわからないザ・昭和な扇風機が味を出している独特のレトロポップ空間(追記:夏に行ったらちゃんと動いていました)。
店主は84歳の菊池清子さん。え、 みさじゃないの? って思うでしょ……? 看板を作り直す費用を削減するため、前のお店の名前「みさ」をそのまま残したらしい。
👩「みさって、ママの名前だと思ってました。」
👵「違う違う。私は清子。元々あった看板がまだ使えそうだったから、そのまんま使ったの。みんな勘違いするけどね(笑)」
嫁に行くのが嫌で山形から逃亡!浅草経由で流れ着いた大阪
清子さんは山形県出身。1970年にこの場所で[喫茶みさ]を開業した。
👩「どうして大阪に来たんですか?」
👵「逃げるため。」
👩「え?」
👵「嫁に行くのが嫌で、家出したの。最初は浅草に行ったんだけどね。」
👩「他に好きな人がいたとか?」
👵「いないいない。そうじゃないけど、とにかく嫁に行くのが嫌だったの。」
お見合い結婚が当たり前だった1938年、5人兄弟の末っ子として生まれた清子さんは、姉や兄と同じように「親が決めた相手と結婚しなければならない」と決められていた。しかし、自立心が強く都会に憧れていた清子さんは、20歳の頃に故郷を捨てて上京。
高度経済成長期真っ只中の浅草で20代の青春を謳歌したという。
👩「当時の浅草ってどんな感じだったんですか?」
👵「田舎から出てきた私にとっちゃ夢の世界よ。演芸広間とかキャバレーとか、娯楽施設が詰まった『新世界ビル』があってさ。音楽喫茶とかダンスホールで毎日酒飲んで踊ってたわ。」
👩「踊ってたんですか? 社交ダンス?」
👵「そう。ジルバ※とか、なんでも踊れるよ。リードもできるし、上手だったのよ〜。今だってほら、まだ身体も柔らかいでしょ。」
👩「すごい……かっこいい!」
👵「やりたい放題してきたわ(笑)」
※ジルバは、軽快でリズミックな社交ダンスの一種。スイングダンスの中でもS(スロー)とQ(クイック)を使って4/4拍子のリズムを取っていくシングルリンディー形式。1945年に第二次世界大戦の終戦とともにアメリカ駐留軍によって日本に伝わった。
浅草で遊びながら、当時渋谷にあったカフェ開業のための喫茶学校に通っていた清子さん。
しかし、そんな生活も長くは続かず、親に見つかり引き戻されそうになってしまう。浅草にいたらまた見つかってしまうと思い、たまたま名刺をもらった大阪の知人を頼りに、所縁のない大阪へと逃避行したのだ……。
👵「大阪に来たのはたまたま。浅草にいたら見つかっちゃってさ。」
👩🦰「ちょうど大阪万博の頃ですよね。」
👵「そう、万博の頃。このへんはボロボロの街だったのよ。店の中もボロボロだったけど。」
👩🦰「知らない土地でお店開くなんて大変だったんじゃないですか?」
👵「そりゃ大変よ。大阪信用金庫からお金借りてさ。よう働いたわ。ほんとによう働いた。そこそこ繁盛したのよ。今はやってないけど、昔は焼き飯、カレー、スパゲティとかやってたし、夜も営業してたから。」
👩🦰「常連さんもたくさんいたんですか?」
👵「うんうん、みーんなパッタリ来なくなっちゃったけどね。亡くなった人も多いし、ボケちゃったり、入院したりさ。」
ここは持ち家ではなく、貸店舗。店の上に住んでいるのは大家さんの家族で、今でも家賃を払いながら、清子さんは毎日別の場所から出勤している。
👩🦰「壁のデザイン素敵ですよね。内装は清子さんが考えたんですか? 」
👵「そうよ、自分でデザインして改造したの。昔は隣も喫茶店だったんだけど、壁が薄くてね。防音のためにクッション入れて貼ったわけ。これかてあんた、最初は鮮やかなグリーンで綺麗やったんよ。50年たてば汚くなんの。」
👩🦰「いやいや、今でも喫茶店の壁として最高傑作だと思います。」
家族と連絡を取らず、生涯独身で生きると決めた
そのまま一度も故郷に帰ることはなく、大阪で生きてきた清子さん。家族とは一切連絡を取らない、生涯独身でいると心に決めていた。
👩🦰「その後、結婚することは考えなかったんですか?」
👵「うん。ず〜っと独身! 子供もいない!」
👩🦰「そうなんですね……。」
👵「子孫残したら大変でしょ。私は自分の人生を生きるって決めたの。」
👩🦰「当時はそういう考えの人は少なかったんじゃないですか?」
👵「そうね、結婚して子供産むのが幸せだって、ほとんどの人はそう思ってたんじゃない? 私みたいなのは珍しいわな。」
👩🦰「大阪ではどんな生活を送ってたんですか?」
👵「毎日飲み歩いてたわ。この辺じゃ上本町ハイハイタウンによく行ったねえ。今はほとんど出歩かないけど、家では毎日飲んでるよ。」
👩🦰「お酒好きなんですね。」
👵「どぶろくとか飲むよ。山形出身だからお酒は強いの。お酒が元気の秘訣(笑)」
👩🦰「この猫ちゃんは? 家で飼ってるんですか?」
👵「そう、プーちゃん。20年くらいいてる。」
👩🦰「じゃあ、猫と二人暮らし?」
👵「いや、彼氏もおるわ。」
👩🦰「えっ! 彼氏いるの!? 彼氏と同棲してるってこと?」
なんと、清子さんは約10歳年下の彼氏と20年以上同棲しているらしい。相手は毎日来ていた常連客。未婚の84歳が年下の彼氏と同棲しているという展開!! シビれる……!
👩🦰「彼氏はどんな人なんですか?」
👵「彼もずっと独身でね。一人っ子で兄弟はいないし、両親も死んでひとりぼっちや。話し相手は私一人くらい。不思議な関係やね。」
👩🦰「それは今の時代でも珍しいかも……。」
👵「まぁ、相当珍しいわね。 気楽よ〜。」
実らなかった悲しい恋の話もしてくれた。今一緒に住んでいる彼氏は、実らなかった相手の同僚だったという。ずっと支えてくれたらしい。「人生ってイロイロよ。」という言葉が沁みる……。
「大事にしいや」一度だけ、40年ぶりに再会した母親
👩🦰「ご家族とは連絡取ってないんですか?」
👵「取らない。そんなん許されへんわ。でもね、私が60歳くらいの時に、どこからか噂を聞いて母親が店に来たんよ。」
👩🦰「突然訪ねて来たんですか?」
👵「そう、今あんたが座ってる向かいの席に座って、コーヒー注文してさ。顔見ても全然わからんかった。ヨボヨボのばあさんになってたし、あっちも最初は何も言わなくて。」
👩🦰「40年ぶりくらいの再会ですよね。」
👵「そうね、びっくり。それで、大変だったのよ! 母親が膀胱炎起こしちゃってさ!」
👩🦰「え?」
突然山形から訪れた清子さんのお母さん。なんと、急に膀胱炎になってしまい、病院に緊急搬送。「保険証を持ってきてないもんだから、大変よ」……というドタバタな出来事を語ってくれた。その時、世話をしてくれたのが今の彼氏。必然的にお母さんに彼氏を紹介することになった。
👵「ええやろこ(山形弁でやろこ=男の子の意味)やって。お前みたいな気性のはげしいやつと一緒にいてくれるなんて、大事にしいやって言ってたわ。安心したんちゃうかな。」
なんとなく、その時の清子さんの気持ちは聞けなかった。程なくして清子さんのお母さんは亡くなったという。
👩🦰「それから、ご兄弟に会ったりしたんですか?」
👵「会ってないよ。兄とは電話で話したけど。ねーちゃんはもう亡くなったやろな。」
人生、100年も200年も生きられないんだから
70年代を象徴する個性強めのハイカラ純喫茶としてチェックしていた[喫茶みさ]。内装以上にインパクトの強い清子さんに、漫画「はいからさんが通る」の主人公・紅緒のキャラクターが重なった。まさに、自由奔放なじゃじゃ馬娘。
2回目の訪問時に「実は、私も子孫は残さない派。籍を入れてる夫はいるけど、平日は別々の家に住んでるんです。」と伝えると、嬉しそうに「いいね。あんた、あたしみたいなタイプやな(笑)」と笑っていた。
👩🦰「親は孫の顔が見たいだろうな……って思うんですけどね。」
👵「みんなそんなん言うのよ。人それぞれなんだから、無理することないの。人生、100年も200年も生きられないんだから。」
👩🦰「清子さんは100歳まで生きるでしょ。」
👵「そんなのわかんないよ!」
清子さんの話の中に「人生、100年も200年も生きられない」というフレーズが何度も出てきた。
👵「自分のことは自分で決めなきゃだめ。他人に合わせてたら、そんなの人生でもなんでもないの! がんばれがんばれ!」
👩🦰「はい……。がんばります!」
清子さんにこんなことを聞くのは失礼な気もしたけど、「後悔してることってありますか?」と聞いてみた。
👵「ないよ。 私は幸せ。」
ズバッと言い切ってくれた。
故郷との縁を切り、大阪でたくさんの人に支えられて生きてきたという清子さん。そんな清子さんに元気をもらえる[喫茶みさ]という空間……。「この内装を残したい」と、お店の継承を申し出る人も何人かいたが、全て断っているという。確かに、空間が残っても清子さんがいなかったら意味がない。
100歳になっても元気にお店を続けている清子さんの姿を想像して、あり得るな……と思ったと同時に、「そんなのわかんないよ!」という清子さんの言葉を思い返した。