年度末、読者諸賢は忙しくされていることと存じます。ようやく春めいてきたわけですが、筆者の心がそれに連動しているかというと決してそうではありません。大阪港周辺で立ち飲みを3軒ハシゴして中央線に乗り込み、見事に惰眠をむさぼって大阪平野を生駒山のふもとまで横断してしまった直後、自戒の念からなかなかそういう気にはなれないわけです。
荒れた生活を送っているかのようですが、いちおうやるべきことはやっています。確定申告も済ませました。原稿も巻きで納品しました。目当ての飲み屋でYouTuberが撮影しているのを見て、今日のところはやめておこうと極めて冷静なジャッジを下しもしました。これらをもって自尊心を保てるところに、精神面の燃費のよさを感じずにはいられません。
さて、今回のテーマは「摂津道端民俗図会」。市井の人々により形づくられたいろいろの生活文化をレポートしたく思います。
センタリング駐輪よ、どこまでも
僕が暮らす野田、さらには近隣の九条、四貫島、春日出あたりの商店街には、街路のど真ん中に自転車を停め置く文化が存在する。自転車の一列縦隊を隔てて、買い物中のみなさんが自然に交通整理されるわけだ。あくまで個人の感想の域を出ないのだけれど、これは大阪市内でもウエストサイドに顕著な現象のように思われる。行儀がいいのか悪いのかは判然としないものの、周囲がそうしている以上は合わせざるをえない。それが社会性というものなのだろうと自らを納得させ、4リットルの焼酎(大五郎より廉価なもの)を積載したマイバイクを隊列に加えている。
一方、こちらは野田新橋筋商店街から徒歩5分ほど、新なにわ筋を中之島方面に南下していた際に見かけた孤高のママチャリである。およそ商店街マナーがおよばないであろう歩道に単騎、商店街マナーを体現する度胸に面食らったものだ。違法駐輪と断じるのはたやすいが、折り目正しくタイルの目地に沿って駐輪するさまに注目してほしい。そこにはある種の理性さえ感じることができまいか。特定の文化への過剰な適応が、生真面目なまでの遵法意識が、このアンビバレントな光景を生んだのではあるまいか(自身の原稿において、初めて「アンビバレント」という言葉を使えてうれしい。やったね!)。
ところで、野田新橋筋商店街には僕のことを見かけるたびに「薄汚いロン毛やな」とのかわいがりを入れる八百屋のおばさんがいる。その律儀さには大いに学ぶべきだと思うし、直截な意見に耳を傾ければ人生が好転するのかもしれない。実際にロン毛は人を選ぶ。それゆえ、恋愛市場における機会損失が生じている可能性も否定できない。とはいえ、ロン毛由来の情報量が仕事につながることもある。ルックスと仕事ぶりのギャップによって、商売が成り立っている面もある。何よりいまさら断髪してしまうと、自己同一性を失いかねない。つい先日、さる立ち飲み屋で居合わせたロン毛青年と、そういう話をしていた。お互いにリスクを取らない、堅実なロン毛でありたいものだ。
都市型ミニマル園芸にのけぞる
大阪にせよ東京にせよ、大都市圏の下町と見なされるエリアには、明らかにオーディエンスの視線を意識した園芸というのが散見される。車社会のスピード感では看過されるであろう緑化活動が、時速4キロでの移動を前提とした自己表現が、そこここに見受けられるのである。庭を持てないがゆえの工夫が感じられることもしばしばで、否応なしにいじらしい気分にさせられる。そうした文化の極致ともいうべきものが、鶴橋と今里の中間あたりに位置する民家の軒先に鎮座していた。DIY箱庭ラックである。
力作を前に、思わずため息が漏れる。ベニヤ板と角材を組み合わせ、その天面に排水用の穴をうがち、ペットボトルというミニマルな空間を最大限に活用する様子は、実に都会的だ。どこか南船場の[オーガニックビル]に似た精神性が感じられるし、制作者の甲斐甲斐しい人柄もうかがわれる。SDGs的にいえば「気候変動に具体的な対策を」だし、「陸の豊かさも守ろう」だ。文字通りの草の根活動が、平野川を西へ少し入った路地にひっそりと展開されているというわけである。
こうやって植物を愛でるという営為は、心にそれなりのゆとりがないと成立しえないと思う。すでに結婚し、落ち着くべきところに落ち着いた同世代の友人の多くは、男女を問わず花や観葉植物を愛でるフェーズに突入したらしく、そのことをもって日々の潤いとしている。かたやライフステージ周回遅れの僕はアルコールを慰めにするばかりで、俗っぽい生活態度は一向に改まりそうにない。そこを改革してこそ、世に言う「ていねいな暮らし」を実践してこそ、より高邁な人生経験が積めるのではあるまいか。あるいは「何気ない日常に感謝◎」できるのではなかろうか。そんなふうに自省しつつも、結局は赤提灯に吸い寄せられる人間臭さをこそ評価してほしい――というのは甘えが過ぎますかね。
住宅街の片隅に異界への入口を見た
猫よけのペットボトルというのは別段珍しいものではないが、こうも無作為に並べられているケースはあまり見たことがない。いや、むしろ猫の行動パターンをAIに学習させたうえでのフォーメーションなのだろうか。向かって右側に集中して配置されているあたり、ヤクルトの村上宗隆、ないしは阪神の佐藤輝明のような左の強打者を意識した守備シフトのようにも思われる。村上宗隆という選手については、かねて横山大観の「無我」に通ずるルックスだと主張しているが、誰からも同意を取りつけられない。極めて遺憾である。
強引な比喩をしてはみたものの、もはや野球が万人の知るユニバーサルデザインな話題だった時代は終焉を迎えた。中学校進学を目前に控えた2001年、若松ヤクルトが日本一に輝いた年の開幕戦を横浜スタジアムに観戦し、見知らぬおじさんと抱き合いながら、なぜか大泣きで勝利を祝した話をしたところで、誰も喜ばないのである。
厳しい現実を直視したうえで、視線を手前に移してみよう。近づく者を拒むかのようなタイガーロープが目につく。ごていねいにも、紙垂を思わせるビニールテープまでくくりつけられている。新手の民間信仰だろうか。にわかに物々しげな、ここが禁足地であるかのような雰囲気が漂ってくる。村上シフトが、サトテルシフトが、セイバーメトリクスに基づく理論野球が、途端にスピリチュアルな性格を帯びて迫ってくる。ひとつ前の段落はなんだったのか。懲りずに野球の話に結びつける自らの浅はかさを、これでもかとばかりに再認識させられる。
ここはいっそのこと、政治的なスタンスも表明して男らしさを顕示した方がいいのではないか。そこまでのものはありませんけど。ものはついでと、スピリチュアルな男女交際に巻き込まれそうになった過去にも言及しそうになったわけだが、それも控えることにしたい。恋愛にチャクラの開閉を持ち込みたくはない。こうして、物事を穏便に済ませるためのリテラシーというのも、30代も半ばを迎えたロン毛に求められる大事な素養なのだと思っている。